2009/11/26(Thu)
本当の愛
愛=感情の一種で、何かの対象を肯定する気持ち、対象に存在意義や価値を見出したり快を感じたりする気持ちであると理解されている。 (Wikipedia)より
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愛 と言っても、自己愛、家族愛、親子間の愛、恋愛、そして慈悲と、様々な種類の愛があります。
最近、本当の愛 っていうことについて考えていました。
いや、考えざるを得ない感じだったというか。
人のために、誰かのために、何かをするということ、
与えること、してあげること。
その相手は家族だったり友人だったり、子どもだったり、自分以外の誰か。
その時、自分がどういう部分から、他者へ何かをしようとしているのか。
たとえば、親が小さい子供に対して、それも赤ちゃんなんかだと、無条件に子どもを守るためや、
育むために、「 ○○しなければいけない 」 というような思惑とか全くなしに、純粋に何かを与えますよね。(そうでない人もいるかもしれないことはわかりつつも…)
食事だったり、居心地のよい衣類や清潔、感情的な落ち着きを赤ちゃんが得られるために、何かをします。
それはやってあげたから、赤ちゃんに何か返してもらうことを期待してやるのではないと思います。
赤ちゃんだし、まだ何もできないし
でもこれが赤ちゃんではなく、他の人、だったらどうでしょう。
自分が、他の人に何かをするとき(与える、という行為になると思うのですが)、それがどういう感情や思いをもとにしているのか。
最近思っていたのは、本当の愛は 厳しさ なのかなぁと。
もし、本当にその人のためを思っているのであれば、
何かを頼まれたり、あるいは頼まれなくても何かをすることが、
その人にとってどういう影響があるのか その部分に気づいていなければいけないと思ったんです。
優しくしてあげたり、優しい言葉を言ったり、なぐさめたり、何かあげたり…
そうされると人はいい気分にはなるけれど、でも、もしかしてその人がそのままでいることを助長したり、変化することを妨げることにもなり得ます。
例えば子育て。甘えるべき時期に十分満たされた感覚を得ると、自分は十分に愛情を受ける価値があるんだ、愛される存在なんだ、と、自分に対する肯定間や自己価値というものを形成することができます。
でも、ずっと甘やかすばかりではなく、社会で生きるためのルールや仕組み、教えなどをしつけという形で親は教えますよね。
それは厳しいときもあるけれど、その子供が自立して、一人前に生きていけるため、その子供のための厳しさであるわけです。
子育ての例がわかりやすいのであげましたが、これを他の人間関係に当てはめてみた場合。
職場や属している集団の中で、自分がそこにいる人達から好かれるために(嫌われないために)、
居心地よくいたいために、何かしてあげたり、いい言葉をかけてみたり、気を使ってみたり・・・。
そういう形での 何かをしてあげる は、本当の愛ではなくて、自分のためのことだったんだなぁと。
あるいは、罪悪感からくる愛。
相手に対して、何か気兼ねする部分、うしろめたい気持ち、すまないような気持ちが深層にあって、
それをカバーするために 何かをしてあげる という愛。
「 これをしてもらっているから 」、「 すまないから 」、じゃあ自分はこれをしてあげなきゃ というような気持ちから 何かをしてあげる のが、罪悪感からくる愛に当てはまると思います。
「ごめんなさいね」「すみませんね」と言いながら、したくないのに無理して 何かをしてあげる のは、
自分の状況を守るため だったり、罪悪感を隠すためだったり。
相手が居心地よく、安心できる状態でいるために 何かしてあげることは、一見 いいこと のように思えますが、その人が今まで通りでいることを許すこと であり、変化させない ということにもつながるんですね。
同じでいることは、変化しないこと。
居心地がいいから、そのままでいる。
でも、そうやっていたら前に進むことって、できません。
進歩は、進化は、結果がどうであれ、前に進もうと試みることから始まるのだと思います。
居心地がいいこと、安心できることはいいんだけれど、人生の中には敢えて危険を冒して前に進むために変化しなければいけない時もあります。
人間関係(恋愛とか)で、本当に相手を愛しているという感情からではなく、惰性や執着、それまであったものを失うことへの恐れ から続けていたのであれば、それは相手のためにもなっていないし、もちろん自分を欺いていることにもなります。
そう考えてみると、本当の愛というものを与えることができる人って、すごい。
だって、多分相手を本当に思っているから、厳しさも与えているはず。
そこには自分がよく思われたい、という気持ちはないと思うんです。
厳しいこと、言われて嫌なことを言ったら、相手は傷つくかもしれない、嫌われるかもしれない、
でも、相手にとってのためになることであればちゃんと伝える。
これができる人って、本当の 愛する ことができる人なんじゃないかなと。
「 今この瞬間 」 を生きようと集中していると、 こういう自分の中にある感情や、
人の奥底にある襞のような部分、普段はあえて見ようとしない、人があんまり見せたがらない、闇的なダークっぽい部分に気づいてくる感じで。
ほんとは 闇 なんてないんだけれど。
なんとなく、うぁぁぁぁああああ!!!!! (>_<) というか・・・。
人間の深層心理?人として誰もが持つような、 でも敢えて出さない、語ろうとしない、底の部分を感じ、
ちょっと きっつーーー
というような近頃でした。
自分の中で、その部分に気づくと、浮上すると、ああ嫌だ という感じに、フタをしようとしていたんです。
こんな一面、許せないと思ってました。
人に対して思うネガティブな感情や、相手のためにしているつもりだったけれど、実は自分を守るために
していたことだったと気づいた部分とか。
いつも、いい人でいたかった。
人を傷つけることを、恐れていた自分に気づきました。
それは同時に、自分も傷つきたくなかったのです。
その本音に気づいて、ふっきれました。
急に、あ、こういう部分もあるんだ、と。
それは悪いことではなくて、人間に(自分に)ある、ある一面で。
それを いい とか 悪い というラベルを貼っていたのは自分なだけで。
そのダークちっくな部分を排除しよう、排除しよう、ダメだこんなの、こういうのは許せないという感覚でいた時は辛かったです。
ようするに自分の中にあるその一面を、認めないでいたわけだから。
でも、いい も 悪い もなく、ただ ああそうなんだ、とか あるんだ という感じで捉えていくようになったら、ずっとつかえていたモヤモヤがすーっと消えていきました。
以前、師であるゲリーさんの個人セッションを受けた時、問題があると言われました。
「人の悪い部分を見たくない」と。
そして、「悪い部分が見えないとね、いい部分も見えないからね、」とも言われました。
今になって、ああこのことだったんだ、という気づきがきた感じです。
「人の悪い部分を見たくない」のは、自分の悪い部分を見たくない、でもあります。
確かに、そうだったなと。
わたしたちはいくつものいろんな過去世やあらゆる転生を、
何度も生まれ変わり、いろんな人格を体験します。
その状況・場所・環境、その人間(役)を通してしかできない出来事や学び、感覚を体験します。
それは人間に宿った魂として、あらゆる体験を通してしか理解できないことや、気づき、学び、のため、
そして成長と進化のために選んできます。
いつも、いい人ばかりの人生だったら。
いつも、幸せですべてが満たされてばかりの人生だったら。
悪いことをする人の気持ち、心理、どうしてそうなのかというダイナミクスを理解することは難しいです。
だからいいも悪いも、あらゆる人間としての役柄を演じ、体験します。
たとえば殺人犯。何人も人殺しをする人がいたとして、一般的には、概念的には、価値観としても人殺しは悪いこと、という認識はあります。
でも、その人がそうなるべきには理由があって。
それは今生でのものだったり、過去世からの影響だったり、何らかの理由があるわけです。
そしてそういう、社会的に疎まれるような、阻害されるような人格を演じている、ある意味過酷でもあるその役を(人格を)やっている、と、その人を捉えると、
まったく違った捉え方に変化していきます。
魂として、宿ったその人間の個性の中で、その人が学ぼうとしていること、体験しようとしていること。
それらを思うと、そういう人であっても、底辺に、尊重という気持ちが湧いてきます。
今、この人間という役柄をやっている人は、この自分だけです。(ほんとにドラマや映画と同じと捉えてみるといいかもしれません)
だから一瞬一瞬、絶対にその瞬間しかない、たった一度限りの貴重な、かけがえのない瞬間。
いつも当たり前のように、普通に見ている太陽、日の光、草木の香り、頬に当たる風、呼吸さえも、同じ瞬間は二度と、どこにもありません。
その あなた という人格の中で体験している感覚でさえ、五感でさえ、他の人間の中に宿ったなら、
まったく別の体験かもしれないのです。
そう思うと、一瞬一瞬を懸命に生きたいなと思います。
日常のことやいろいろなことで、ふと流されそうになった時、忘れそうになったとき、
いつも、この原点を思いだそう と、心した次第…。
前述の、セッションで 問題がある と指摘されたことに対して、
当時の私は「解放(リリース)します!」と即座に返答したのでした。
すぐに簡単に解放できると思ってましたもの。
・・・1年前になりますかね・・・
今、底の底までつっついて浮き上がらせ、
ようやく完全に解放できた感覚がしています。
そして、本当の愛 っていうのは、全部、いい も 悪い も、ほんとに全部、ありのまま、
IS(在る) ということなんだと
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いつも、あなたが自分自身を生きてHAPPYでありますように♪
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愛 と言っても、自己愛、家族愛、親子間の愛、恋愛、そして慈悲と、様々な種類の愛があります。
最近、本当の愛 っていうことについて考えていました。
いや、考えざるを得ない感じだったというか。
人のために、誰かのために、何かをするということ、
与えること、してあげること。
その相手は家族だったり友人だったり、子どもだったり、自分以外の誰か。
その時、自分がどういう部分から、他者へ何かをしようとしているのか。
たとえば、親が小さい子供に対して、それも赤ちゃんなんかだと、無条件に子どもを守るためや、
育むために、「 ○○しなければいけない 」 というような思惑とか全くなしに、純粋に何かを与えますよね。(そうでない人もいるかもしれないことはわかりつつも…)
食事だったり、居心地のよい衣類や清潔、感情的な落ち着きを赤ちゃんが得られるために、何かをします。
それはやってあげたから、赤ちゃんに何か返してもらうことを期待してやるのではないと思います。
赤ちゃんだし、まだ何もできないし

でもこれが赤ちゃんではなく、他の人、だったらどうでしょう。
自分が、他の人に何かをするとき(与える、という行為になると思うのですが)、それがどういう感情や思いをもとにしているのか。
最近思っていたのは、本当の愛は 厳しさ なのかなぁと。
もし、本当にその人のためを思っているのであれば、
何かを頼まれたり、あるいは頼まれなくても何かをすることが、
その人にとってどういう影響があるのか その部分に気づいていなければいけないと思ったんです。
優しくしてあげたり、優しい言葉を言ったり、なぐさめたり、何かあげたり…
そうされると人はいい気分にはなるけれど、でも、もしかしてその人がそのままでいることを助長したり、変化することを妨げることにもなり得ます。
例えば子育て。甘えるべき時期に十分満たされた感覚を得ると、自分は十分に愛情を受ける価値があるんだ、愛される存在なんだ、と、自分に対する肯定間や自己価値というものを形成することができます。
でも、ずっと甘やかすばかりではなく、社会で生きるためのルールや仕組み、教えなどをしつけという形で親は教えますよね。
それは厳しいときもあるけれど、その子供が自立して、一人前に生きていけるため、その子供のための厳しさであるわけです。
子育ての例がわかりやすいのであげましたが、これを他の人間関係に当てはめてみた場合。
職場や属している集団の中で、自分がそこにいる人達から好かれるために(嫌われないために)、
居心地よくいたいために、何かしてあげたり、いい言葉をかけてみたり、気を使ってみたり・・・。
そういう形での 何かをしてあげる は、本当の愛ではなくて、自分のためのことだったんだなぁと。
あるいは、罪悪感からくる愛。
相手に対して、何か気兼ねする部分、うしろめたい気持ち、すまないような気持ちが深層にあって、
それをカバーするために 何かをしてあげる という愛。
「 これをしてもらっているから 」、「 すまないから 」、じゃあ自分はこれをしてあげなきゃ というような気持ちから 何かをしてあげる のが、罪悪感からくる愛に当てはまると思います。
「ごめんなさいね」「すみませんね」と言いながら、したくないのに無理して 何かをしてあげる のは、
自分の状況を守るため だったり、罪悪感を隠すためだったり。
相手が居心地よく、安心できる状態でいるために 何かしてあげることは、一見 いいこと のように思えますが、その人が今まで通りでいることを許すこと であり、変化させない ということにもつながるんですね。
同じでいることは、変化しないこと。
居心地がいいから、そのままでいる。
でも、そうやっていたら前に進むことって、できません。
進歩は、進化は、結果がどうであれ、前に進もうと試みることから始まるのだと思います。
居心地がいいこと、安心できることはいいんだけれど、人生の中には敢えて危険を冒して前に進むために変化しなければいけない時もあります。
人間関係(恋愛とか)で、本当に相手を愛しているという感情からではなく、惰性や執着、それまであったものを失うことへの恐れ から続けていたのであれば、それは相手のためにもなっていないし、もちろん自分を欺いていることにもなります。
そう考えてみると、本当の愛というものを与えることができる人って、すごい。
だって、多分相手を本当に思っているから、厳しさも与えているはず。
そこには自分がよく思われたい、という気持ちはないと思うんです。
厳しいこと、言われて嫌なことを言ったら、相手は傷つくかもしれない、嫌われるかもしれない、
でも、相手にとってのためになることであればちゃんと伝える。
これができる人って、本当の 愛する ことができる人なんじゃないかなと。
「 今この瞬間 」 を生きようと集中していると、 こういう自分の中にある感情や、
人の奥底にある襞のような部分、普段はあえて見ようとしない、人があんまり見せたがらない、闇的なダークっぽい部分に気づいてくる感じで。
ほんとは 闇 なんてないんだけれど。
なんとなく、うぁぁぁぁああああ!!!!! (>_<) というか・・・。
人間の深層心理?人として誰もが持つような、 でも敢えて出さない、語ろうとしない、底の部分を感じ、
ちょっと きっつーーー

自分の中で、その部分に気づくと、浮上すると、ああ嫌だ という感じに、フタをしようとしていたんです。
こんな一面、許せないと思ってました。
人に対して思うネガティブな感情や、相手のためにしているつもりだったけれど、実は自分を守るために
していたことだったと気づいた部分とか。
いつも、いい人でいたかった。
人を傷つけることを、恐れていた自分に気づきました。
それは同時に、自分も傷つきたくなかったのです。
その本音に気づいて、ふっきれました。
急に、あ、こういう部分もあるんだ、と。
それは悪いことではなくて、人間に(自分に)ある、ある一面で。
それを いい とか 悪い というラベルを貼っていたのは自分なだけで。
そのダークちっくな部分を排除しよう、排除しよう、ダメだこんなの、こういうのは許せないという感覚でいた時は辛かったです。
ようするに自分の中にあるその一面を、認めないでいたわけだから。
でも、いい も 悪い もなく、ただ ああそうなんだ、とか あるんだ という感じで捉えていくようになったら、ずっとつかえていたモヤモヤがすーっと消えていきました。
以前、師であるゲリーさんの個人セッションを受けた時、問題があると言われました。
「人の悪い部分を見たくない」と。
そして、「悪い部分が見えないとね、いい部分も見えないからね、」とも言われました。
今になって、ああこのことだったんだ、という気づきがきた感じです。
「人の悪い部分を見たくない」のは、自分の悪い部分を見たくない、でもあります。
確かに、そうだったなと。
わたしたちはいくつものいろんな過去世やあらゆる転生を、
何度も生まれ変わり、いろんな人格を体験します。
その状況・場所・環境、その人間(役)を通してしかできない出来事や学び、感覚を体験します。
それは人間に宿った魂として、あらゆる体験を通してしか理解できないことや、気づき、学び、のため、
そして成長と進化のために選んできます。
いつも、いい人ばかりの人生だったら。
いつも、幸せですべてが満たされてばかりの人生だったら。
悪いことをする人の気持ち、心理、どうしてそうなのかというダイナミクスを理解することは難しいです。
だからいいも悪いも、あらゆる人間としての役柄を演じ、体験します。
たとえば殺人犯。何人も人殺しをする人がいたとして、一般的には、概念的には、価値観としても人殺しは悪いこと、という認識はあります。
でも、その人がそうなるべきには理由があって。
それは今生でのものだったり、過去世からの影響だったり、何らかの理由があるわけです。
そしてそういう、社会的に疎まれるような、阻害されるような人格を演じている、ある意味過酷でもあるその役を(人格を)やっている、と、その人を捉えると、
まったく違った捉え方に変化していきます。
魂として、宿ったその人間の個性の中で、その人が学ぼうとしていること、体験しようとしていること。
それらを思うと、そういう人であっても、底辺に、尊重という気持ちが湧いてきます。
今、この人間という役柄をやっている人は、この自分だけです。(ほんとにドラマや映画と同じと捉えてみるといいかもしれません)
だから一瞬一瞬、絶対にその瞬間しかない、たった一度限りの貴重な、かけがえのない瞬間。
いつも当たり前のように、普通に見ている太陽、日の光、草木の香り、頬に当たる風、呼吸さえも、同じ瞬間は二度と、どこにもありません。
その あなた という人格の中で体験している感覚でさえ、五感でさえ、他の人間の中に宿ったなら、
まったく別の体験かもしれないのです。
そう思うと、一瞬一瞬を懸命に生きたいなと思います。
日常のことやいろいろなことで、ふと流されそうになった時、忘れそうになったとき、
いつも、この原点を思いだそう と、心した次第…。

前述の、セッションで 問題がある と指摘されたことに対して、
当時の私は「解放(リリース)します!」と即座に返答したのでした。
すぐに簡単に解放できると思ってましたもの。

・・・1年前になりますかね・・・
今、底の底までつっついて浮き上がらせ、
ようやく完全に解放できた感覚がしています。

そして、本当の愛 っていうのは、全部、いい も 悪い も、ほんとに全部、ありのまま、
IS(在る) ということなんだと

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